「すべての人を照らす光」 07.04.22
使徒26:19〜32
パウロは、王たちに向かって「わたしのようになってくださる
ことを神に祈ります」と言いました。たとえ王であっても、主イエスを
信じることが出来ないとしたら、それでは人として十分ではない
からです。主なる神さまから離れて生きることは、人として幸いとは
言えません。ですから、王も、主イエスの光に照らされて生きるように
なることを祈ったのです。
私たちもクリスチャンは、パウロと同じ言葉を語ることが出来ます。
この世の権力者に対して「あなたも私のようになって欲しい」と
言うことが出来ます。クリスチャンはみんな、主イエスの光に包み
込まれているのですから、自信を持ってそのように言えるのです。
人は、サタンでなく、神さまの前で生きるときにまことの幸いを
与えられます。サタンは、時に悲しみ、時に成功を用いて、人の心を
神さまから引き離そうと誘惑をします。しかし、クリスチャンは、自分の
罪を取り除き、自分を永遠の救いに入れるために血を流してくださった
主イエスの十字架の出来事を知らされています。それにより、神さまが
自分に対して、大きな愛と恵みとを注いでくださっていることに気づかされ
ました。あやまちを見つけて裁こうとする眼差しではなく、赦しと慈しみの
眼差しを向けてくださることを知りました。自分も神さまの光に照らされ
ている幸いに気づかされました。そうして、主なる神さまに向き、
その愛に包まれて生きる者とされています。
クリスチャンは、「聖なる者」と呼ばれます。清く正しいということより、
「神さまのものとされた」という意味です。
主イエスを信じて罪を赦された者は、神さまから「あなたは私のもの
だよ」と語りかけられながら生きるのです。
そのようにして、人は平安と健やかさを与えられます。
これらの幸いは、死によって終了してしまうことではありません。
主イエスの復活によって、死には風穴が開いてしまいました。
神さまの光に照らされることは、死を超えて御国に続く、尽きない
幸いです。